少年時代の思い出となる生家(現在の国見町)
旅費43銭を持参して
長崎市に乗り込んだ時の中川安五郎
手に職を持て
初代中川安五郎は長崎県南高来郡土黒村(現在の国見町)に生まれた。幼少の頃から厳しい父に教え込まれたのが「人間は手に職を持たない事ほど哀れなものは無い。手に職を持つことは将来の成功のもとである。だから何の職でも良いから必ず身につけておかないといけない」という言葉だった。
当時使用した菓子見本帳
馬町店(明治43年)
真面目な性格だった安五郎は言われたとおり、当初は大工や鍛冶職の仕事についたが全く物にならなかったらしい。それもそのはず、真面目とは別に大変な行動派、情熱家でもあった安五郎の性にどうしてもあわなかったのである。その後、知人の紹介で諫早の菓子舗「新開堂」に職人として弟子入りした安五郎は、砂糖や小麦粉などの材料が人間の手によって形になり、色に染まり香りを放つお菓子になることに何とも言えぬ魅力を感じ始めていく。やっと見つけた運命の出逢いが「菓子づくり」。
それからの安五郎はその知識の勉強と技術を磨くことに真っしぐら。
寒菊の宣伝隊
馬町店(大正初期)
晴れて明治33年(1900)一月。長崎市丸山町に開業前から決めていた店の名前!「文明堂」の看板を掲げた。安五郎23歳との時である。
しかし、黙っていても客は来ない。即座に考えたのが開店を知らせるビラ配り。3000枚を作って一軒一軒を回ったのである。まさしくこれが文明堂最初の広告宣伝だった。
こうした経営の知恵と菓子づくりの情熱を客が次第に認め、店にきてくれる数が増えだした。
それに応じて船大工町に移転、少しずつ規模を拡大させていく。
矢上浮立のカステラの宣伝隊
そんな矢先に明治37年(1904)日露戦争が始まり、その影響で菓子は売れない、その原料も入らないという絶体絶命の危機に陥る。ところが、そこがやっぱり安五郎。苦しい中にも、唯一手に入った水飴を原料として新商品「桜飴」を販売、これが大好評を得た。こうした苦境を持ち前の知恵で乗り切っていく。